父、印鑰 烜(いんやく あきら)が2月11日17時頃、旅立ちました。88歳でした。
北海道夕張郡栗山町で教員の子として生を享け、北海道三笠市出身の母と結婚しました。どちらも炭鉱町ですが、経済的には厳しい中、父は東京で設計技師となり、災害応急橋を考案して、日本全国各地、災害で橋が流されたところに応急橋を架けてきました。応急橋なので長く残る橋ではなく、今や父の仕事は目に見える形では残されていないと思いますが、災害に見舞われた人びとの生活を取り戻す一助となる仕事に父はきっと満足していたと思います。
親戚もいない東京に出てきて、病を抱えて、事故や困難な条件での仕事をこなし続けながら、北海道の親家族への仕送りなど、その負担を担い続けることは楽なことではなく、人生を楽しむ余裕はほとんどなかったと思います。本来ならば親を助けるべき息子が親を楽にするどころか社会活動にのめり込んでしまい、心の平安も乱され続けたことと思います。
せめて本を間に合わせたかったのですが、それすらも間に合いませんでした。最後の最後まで恩返しもできなかった息子としては、感謝という言葉では表わすことはできない悲しみから抜け出せそうにありません。
最後の数日、心優しい多くの介護士の方たちに囲まれて「ありがとう」を繰り返す父の姿に救われました。呼吸困難になり苦しい時間が続いても付き添いに行くと、来た僕を逆にもてなそうと心をくばり続けてくれました。
応急橋という形の残らない仕事をした父を考えれば、形にとらわれずに今のこの瞬間瞬間に必要とされる応急橋を言葉にしていくことがその遺志を継ぐことになるのかもしれません。
しばらく、日常を取り戻すのに時間がかかるかもしれませんが、また新たに歩み続けようと思います。
さようなら。ありがとう。
写真は葵の園の介護士の方たちに作っていただいたものです。本当にスタッフのみなさんの優しさには救われました。ありがとうございました。