機械翻訳と人による翻訳の違い

 Google翻訳やDeepLなど機械翻訳の精度が急に上がってきた。これまで実用となったのは言語のルーツが近い言語の間の翻訳に限られた。たとえばスペイン語から英語。日本語と韓国語との相性もいい。一方、ヨーロッパ語から日本語へは使えたものじゃなかった。笑いのネタにしかならず、翻訳作業の下準備にも使えなかった。でも、それが急に読める日本語になってきて、ほぼ使えるレベルになった。最近も長いポルトガル語の論文を日本語に翻訳したのだけど、それも機械翻訳で下訳させたものに手を加えた。時々、GoogleもDeepLも意味を取り損ねるケースがあるものの、作業効率は格段に上がった。
 このまま精度が上がれば、もう翻訳という行為は機械翻訳で済んでしまうのだろうか? いや、これは危ない。もし、それに任せれば、とんでもない事態に陥ることもありうると思う。極論すれば支配的価値観によるマイノリティ文化の抹殺、異なる価値観の抹殺、実現できるはずの未来が失われることも起きてしまいかねないのではないか。

 たとえば、アジア的生産様式論争というものがある。マルクスの『資本論』のロシア語翻訳から始まった論争だ。『資本論』のロシア語版のための作業の中で、翻訳者たちが問題にぶつかる。マルクスが『資本論』で展開していた論理でいくと、圧倒的な遅れた農奴的大地主制に支配されたロシアは近代化・工業化により、いったん工業的近代社会を作った上で、その次に社会主義へと移行するということになる。しかし、ロシアの農村共同体は消えさるべきものなのか?
 この論争には『資本論』を書いた当のマルクス自身も参加し、この論争は彼が無自覚なうちに西欧の特殊な歴史を普遍化したモデルにしてしまっていたことを自覚するきっかけとなった。そしてオリジナル自身を変えていく必要にマルクスは迫られることになる。そして農村共同体から直接近代資本主義を克服することの可能性が追求されてゆく。
 この論争は世界の大部分に適用可能な論争であり、これが進んでいれば世界は大きく変わっていたかもしれない。しかし、この論争は農村収奪(特にウクライナなど周辺国)を基盤に工業化を図るソ連によって抹殺されてしまった。
 
 翻訳とは言語を置き換える作業には留まらない。そもそも異なる価値体系の関係は相互に翻訳可能とは限らない。AIであればそれはできる、というかもしれないが、果たしてそうか? Aという言葉に相当する言葉はこの言語ではBが近い、という推論であればAIでできるだろう。でも、それに尽きる行為ではない。農村共同体をどうしたいのか、という思いや意志なしに『資本論』のロシア語翻訳という行為は成立しなかった。結局、何をめざすべきか、どう生きるか、という問いにぶつかることもある。そのぶつかりでオリジナルが変わることすらあるのだ。
 
 AIが参照するインターネット上のデータは支配的な勢力が圧倒的な量を作り出している。だから、AIが提供する翻訳もその支配的な価値観に染まっていると考えなければならない。単純な事実を伝える翻訳では機械翻訳は役立つことは言うまでもないけれども、それで済ませてしまえば本来、作り出せた可能性が潰される。そして、それまでは存在し得たマイノリティの価値観も潰されてしまう危険が存在していると思う。
 アジア的生産様式論争はソ連によって弾圧されたが、機械翻訳だけになってしまうことを想定すると、その論争すら存在しなくなってしまうのかもしれない。だとしたら、ソ連以上の抑圧になるということにならないか。
 
 本当の意味での翻訳とは複数の価値体系を往復できる人によってこそ可能になる。実際にこの複数の価値体系を生きるということはそう容易な行為ではない。価値観のはざまで苦しみ、葛藤を経て、複数の価値体系が根を下ろし、共存可能になる。機械翻訳は異なる言語を話す人びとの間の意思疎通を一定助けるものの、その一方でマイノリティの価値体系を押しつぶす危険があることも理解する必要があるだろう。そしてその価値体系を救い出す行為は今後さらに重要になってゆくと思う。

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