バンダナ・シバ『バイオパイラシー グローバル化による生命と文化の略奪』

バンダナ・シバ(Vandana Shiva)、この人のことをどう語ることができるだろう?

Vandana Shiva no Fronteiras do Pensamento20年前にリオで開かれたRio92(国連環境開発会議UNCED92)に平行して開かれたグローバル・フォーラム(会場はピープルズ・サミットと同じフラメンゴ公園)の会議で出会った。20年後も、珠玉のフレーズが息つく間もなく飛び出す。原稿も持たずにどうしてこんな美しく力強い演説ができるのだろう、しかも知的な深みが半端でないのだ。

Rio92の後、日本に帰国してから日本語に訳された『生きる歓びーイデオロギーとしての近代科学批判』(築地書館)を読む機会があった。近代科学がいかに自然と女性の抑圧の上になりたっているのか、太く大きな筆致で描かれていた。物理学者としての緻密な論理は説得力に満ちており、過去の分析から未来への実践につながるその強靱な知的エネルギーに感銘を受けた。

バイオパイラシー
緑風出版 2002/06/30初版
この『バイオパイラシーーグローバル化による生命と文化の略奪』(Biopiracy — The Plunder of Nature and Knowledge)が書かれたのは1997年のこと。この本はそれ以来、遺伝子組み換えや生物多様性・バイオパイラシー問題に取り組む世界の人たちのバイブルになった。今、読んでもまったく古さを感じさせない。

もちろん、時代は15年以上前のことであり、TPPのことはもちろん出てこないし、まだGATTの時代だ。しかし、もし現在、そして今後の世界の動きをしっかり理解しようと思った時、この本は今なお避けては通れない本の一つなのではないだろうか?

バンダナ・シバは今、世界を覆っているグローバル化による侵略の歴史を3つにわけて説明する。最初は1500年からの植民地化のグローバル化、第2は戦後に襲う開発というグローバル化、そして、現在、来ているのは多国籍企業の権力による「自由貿易」によるもの。その違いはこのように表現される。「現在では、土地、森林、河川、海洋、大気はすべて植民地化され、浸食され、汚染されてしまった。資本家は、将来の資本蓄積のため、侵略・開拓するための新しい植民地を探さなければならない。その新しい植民地とは、女性、植物、そして動物の身体の内部空間である。
 過去には、植民者としての土地侵略は、砲艦の技術開発によって可能となった。現在では、新しい植民地としての生物体の侵略は、遺伝子工学のテクノロジーによって可能になってきている(p-92)」

遺伝子工学技術による侵略はモノカルチャー、単一の文化の強要により、南の世界にある豊かな生物多様性を収奪し、破壊する。その破壊を支える武器は知的所有権・特許である。

「単一文化は、常に生態的な暴力とも関連している。それは、単一種栽培を基礎としているため、自然界の多様な生物種を敵とする戦争宣言である。この暴力は、生物種を絶滅へと追いやるだけでなく、単一文化自体を統制し、維持するために施行される。単一文化は、自己持続性がないため、生態系の破局に対して無防備である。
 単一化された系では、一箇所へ乱れが起こると、それが他の部分への乱れとして拡大される傾向を持つ。つまり、生態的に不安定なことが起こると、それは閉じ込められるのではなく、拡大されるのだ。系が持続できるかどうかは、生態学的に多様性を持っているかどうかにかかっている。そして、多様性を持つ系には、どの部分に起きた生態的な乱れでも治癒する自己統制力と多数の相互作用があるのである。p-197」

こうした文脈の中で北の多国籍企業が南の生物多様性を狙うバイオパイラシーが持つ意味が明らかにされる。そしてそれとの闘いが持つ意味も。

破滅的なモノカルチャーと差別と暴力を必要とする単一文化に対して、生物多様性の保護と多様な文化とは互いに結びついていることを示す。「生物多様性は、単に自然界の豊かさを象徴しているだけではない。そこには多様な文化的・知的伝統が織り込まれているのである」

一社に独占される特許、知的所有権に対して伝統的な知識に基づいて村の共同体の中でコレクティブに保有される共同の知識が対置される。

そしてさらに読者はこの命豊かな未来に向けて立ち上がる力が与えられる。

「多様性の操作と独占が行われている現在、種子は「自由の場」かつ「自由の象徴」となった。つまり、種子は自由貿易による再植民地化の時代において、ガンジーのチャルカ(紡ぎ車)の役割を果たす。ガンジーの平和運動において、チャルカは自由の象徴となった。その理由は大きくて強力だからではなく、小さいからである。最小の小屋にも、最貧の家族にも、抵抗と想像の象徴として、生きた力を貸すことができるからである。その力は、その小ささに宿っているのである。

 チャルカと同じく、種子もまた、小さなものである。多様性と生き続ける自由を宿している。そして、種子は現在でも、インドの小さな農家の共有財産である。種子という場において、文化的多様性は生物学的多様性と融合する。エコロジーの問題は、社会的公正、平和、そして民主主義と重なり合うのである。p-242」

バンダナ・シバは近代西洋科学を学んだ物理学者、その彼女がなぜインドの伝統的な生活や文化に未来を見出すのか? 日本のわれわれにとって伝統文化とは桎梏であり、支配の一形態であり、そこから逃げることが自由であり、未来ではなかったか? 彼女の分析により伝統的コミュニティが持ってきている生物多様性の知識こそ未来を切り開く力を持つ。われわれ日本の住民はその知識をどれだけ保持し続けているだろうか?

彼女の思想に触れる時、その近代科学の批判が決して表層的でなく、その近代科学が人間を抑圧してきたことの根源から人間を解放しようという深さとラジカルさを感じざるをえないだろう。そのラジカルさはヨーロッパに侵略されるインドとそれに対する民衆(そして特に女性)の闘い抜きに語れないはずだ。その存在をかけて語る時、その言葉の力は圧倒的だ。

リオのピープルズ・サミットにバンダナ・シバがやってくると、その周囲は彼女の声を一言でも聞こうとする人々によってあっという間に大きな人だかりができた。彼女の講演は常に満員。彼女が去ってしまうと、観客も彼女を追っていなくなってしまう、ブラジルでもバンダナ・シバは大人気だったが、そこにはそれだけのものがあった。

1つ、日本に直接関係することとして、この本の中でバイオパイラシーの例として次のものが上げられている。
「インドに自生する美しい樹木であるニーム(日本ではインドセンダンと呼ばれる樹木)…日本のテルモ社によて二つの特許が所有されている。p-140」

検索してみると以下のようなものが見つかる。
Therapeutic compounds derived from the neem tree

この特許の申請は1985年、この本が書かれたのが1997年、それからすでに15年、この間、いったいいくつのバイオパイラシーのケースが生み出されているのだろうか。今後は、日本企業によるバイオパイラシーにも目を配らなければならない。

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