怒らないのは日本の文化なのか?

 長く、苦しい気持ちにさせられてしまうことだが、原爆投下といい、原発事故といい、これだけのことが起きながらなぜ日本人は怒らないのか、それが日本の文化だからだという言われ方が日本の外では良識的な人びとの間ですらよくされる。
 今回の原発に限らない。『菊と刀』以来、日本は特殊な国、特殊な文化なのだ、という断定が世界中に蔓延っているし、日本人自身、そんな評価を自らの「誇り」にしている人さえいる。もちろん、独自性は常に重要だ。でも独自性と特殊性は異なる。前者は世界文化に独自の寄与をする根拠になるけど、後者は民衆連帯の妨げにしかならない。
 同じ共通の利益で結ばれるべきはずなのに、日本人は特殊だとされることでそこから自ら外れてしまう。世界の常識なら叛乱を起こすはずの状況でも支配者への恭順を示す日本人は世界から見れば理解できない。でも、近代日本に世界にも稀な教育機関や情報機関の統制が世界史的に特異な形で成立していったことを見逃してはならない。そして、日本の歴史の中でもそうした情報統制時代が決してずっと続いてきたわけでもないのだ。特に原爆の被害については米国占領軍による組織的な隠蔽があったこと、日本政府もそれに積極的に協力してきた事実を忘れてはならない。決して、これは文化の産物ではなく、政治が作り出した幻想に過ぎない。そしてそれを一種の「美談」として彼らは維持したいのだ(もちろん、日本という枠組み自身が単なる擬制に過ぎず、日本と呼ばれているものは日本という枠に留まらない多様性のあるもので構成され、その擬制があたかも日本という固有の有機物のように作り上げられてきたのもまたこうした国家情報産業が生み出す幻想であるわけだが)。
 この特殊な環境から抜け出た日本人は世界の他の民衆と同様、自由な動きを示している。しかし、それらは例外的なエピソードにしかならないし、たとえ311前とは大きく変わってきた日本の市民社会もメディアを通して海外から見れば、以前とは大きく変わったようには受け取られない。「日本人は特殊だ」とみなされることによってそこに他国の市民社会相互の連帯が生まれにくくなる。対話が困難になり、その困難さがさらに日本の世界的な孤立を生み出してきたと思う。日本政府が今、世界の潮流からするとかなり突出した方向を取ってしまっていることに対して、どれだけ日本の市民社会が批判しきれているだろうか? もし国際的な連携のある市民社会であればそれはもっと容易に批判できているはずだ。
 TPPをめぐる論議でも「日本の産業を守れ」的なレベルに留まってしまう表現が数多く見受けられる。しかし、TPPはグローバル多国籍企業が世界の人びとの権利よりも企業の権利を優越させ、市民の主権に基づく民主主義に死を宣告する企業の世界支配の動きの1つであり、その完成を阻むためにはそれによって影響を受ける世界中の人びととの連携が不可欠だ。それがなければ日本の農業も下町の中小企業も結局、守れないだろう。
 どの国の市民社会にも厳しい時代がある。ラテンアメリカでは60年代以降、次々に軍事独裁政権が生み出された。ブラジルで64年に軍事政権が生まれると、ブラジルの少なからぬ政治家や市民運動関係者がチリに逃げた。しかし、そこでさらにアジェンデ政権が軍事クーデタで倒されると、さらにそこからメキシコや他の国に逃げていく。その地の市民社会の支援を受けながら着実に軍事独裁に反撃する力を養ってきた。民衆連帯と民主化運動は一つのものとしてある。
 日本の歴史の中でも戦前の日本での弾圧から中国などに渡った活動家の例などを挙げることはできるだろう。でもそれは極めて例外的な例に過ぎず、その運動は国境の壁に封じ込められてきた。そして、世界のマスコミが語るのは日本は特殊な国だという断定であり続けてきた。
 昨年のRio+20でも同じことが言われ、先日の原発のないブラジル連合の会議でも同じ言葉が出た。その都度、それは違うと言い返すのだけど、説得するには力が足りない。もちろん、本当に説得するためには実際に彼らの目を揺るがすような動きが生まれることが必要かもしれない。そして、それは萌芽としてはすでに現れているとは言え、まだ大きなものになっているとはいえない。
 しかし、そうした大きな動きが生まれない限り、連帯が生まれないというわけではないはずだ。もっと率直に日本の状況を語り、日本での問題を伝えることが重要だろう。現在、日本社会が抱える問題を普遍的な課題として語ることができればそこには自ずとして共通の課題が発見されるだろう。その連帯こそ、今のばらばらな小さな動きをまとめ大きなものにしていくことに役立つだろう。つまり連帯によって小さな動きを大きな動きにしていくことができるはずだ。
 そして日本の市民社会がこのような状況の中でも独自に発展させてきた方法論は世界の他の地域でも効果を上げるものが大いにあるはずだ。残念に思うのは、そうした価値のある取り組みは日本の市民社会の中では多くなされてきているにも関わらず、そうした取り組みを世界にしっかり伝えることに関しては、きわめて不十分な取り組みしかできていない。語学能力以上に自分たちのやっていることを宣伝するのが下手なのだ(宣伝というと語弊がある。貢献できるのに貢献しない、貢献下手なのだ)。
 決して日本人が怒らないということはないし、それは日本文化のDNAでもない。そんなものは早く打ち破っておきたいものだ。別に味噌汁にこだわってよくて、日本食最高と思っていていい(実際自分もそう思っている)。その独自性とは別のレベルで世界と問題を共有することができてこそ、今の日本社会の閉塞感も打ち破れるだろう。
 こんな状況を打破するのはもしかするとちょっと常識外れな若い人たちが直接、国境越えて結びついて何かを始めることから生まれるのかもしれない。

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