生物多様性の危機というと、どこか南国の楽園の蝶や鳥が絶滅することのようにイメージするかもしれない。でも、生物多様性の危機とはまさに自分の体の中で起きている。
人間の体内にはその数100兆とも言われる微生物が共生していると言われる。その中で特定できた微生物はほんのわずか。遺伝子解析の技術が最近使えるようになって、その数だけはつかめるようになってきたが、どんな微生物がいて、どんな生態なのか、まだまだわかっていない。そして知られる前に消えていっている可能性が高い。米国人とアマゾンで独立した生活をおくる先住民族の腸内細菌を比較するとその種類が米国人の方が大幅に少なかったという。
内なる生物多様性を失い、免疫を弱め、さまざまな感染症、慢性疾患を増やしている可能性は十分ある。実際に腸内細菌は体内の調整を行うさまざまな神経伝達物質の原料となる必須アミノ酸を人間に提供する。それが止まれば人間は深刻なさまざまな疾病に陥っていく。
誰でもなんとか自分は生きていたいと思うだろう。あるいは自分の家族だけは守りたいと。では、そうやって守ることができるだろうか? いや、自分だけに留まる限り、それは達成できない。なぜなら、内なる生物多様性は決して孤立して存在できるものではないからだ。
すべてはつながっている。体内の生物多様性を支えるのは食べものだが、それにも生物多様性が必要であり、その生物を支える生命もまた多様性を必要とする。すべての生態系につながっていく。だから「誰一人取り残さない」という原則はモラルに留まるものではありえない。
こうした危機に対して、自分たちだけ、覚醒した人たちだけが救われればいい、というようなことを主張が聞こえてくる。確かに現実の危機を認識する人や、それを変えなければ、などと思う人は最初はわずかしかいない。社会全体のシステム、生態系に関わることを変えていこうというのは気が遠くなるかもしれない。しかし、そのように一部の人たちだけが自分たちだけが救われればいい、という動きは間違っているだけでなく、逆に大きな問題を作り出すだろう。なぜならその発想こそが生物多様性に反するからだ。
箱舟という発想がある。選ばれた人たちと本人たちが思っている人たちが選んだ種だけ守るというものだ。そこにはどうしても優生思想が入り込む。優生思想は差別を生み出し、社会の分断を生み出し、最終的には崩壊せざるをえない。優生思想を持った集団が長く栄えたことがないのは、それが生物多様性の原則に反するからだ。
実際に優秀だと思っていたものが、別の文脈では劣ったものになる。劣っていたと思っていたものが実は場面が変わると優れたものに変わる。場面場面で優位に立つものが変わる。その種が恒久的に持つ属性ではない。生物の多様性とはそのようなものであり、特定の思想によって優劣を決め、価値を決定できると思うことが愚かなこと。そうした集団は多様性を失って自壊してしまう。
選別を繰り返しすぎて、生命力を失った種子に古い種子を交配させることでその生命力を取り戻すことができる。生命は多様であるからこそ、維持できる。そして社会も多様であるからこそ、維持できる。大事なのは優秀な種子じゃなくて多様な種子であり、優秀な人たちじゃなくて、すべての多様な人たち。
最初、わずかな人たちであったとしても、それが共感されることで徐々に増えていき、人びとも社会も変わっていくことができる。そんなことでは間に合わない、と焦ってしまえば問題解決どころか逆に大きな被害を生み出してしまう。誰一人取り残さない社会をめざすということは本当に手を離してはならない大原則であることをしっかり心に刻みたい。
今後、さらに浮上してくるであろう優生思想に対して、しっかりと対決したい。大事なのはすべての命。生きるためには他の命をいただく必要もあるけれども、その命を絶やさないように守ることもまた義務でもある。われわれは世界の生物多様性に依存しているのだから。
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