アマゾン破壊と日本の年金について昨日書いた(1)が、このアマゾン破壊と日本の問題は今、日本の危機に直結する時代を迎えていると思う。日本の食料危機であり社会の危機に。なぜか?
日本は明治維新以降、現在に至るまで日本は1つの型にはまってしまった。食料を海外に依存するという体制だ。それがどうして形成されたか、考える必要がある。
日本は軍事大国化への道を突き進んだが、それをなぜ国内の人びとが支えたか。それを可能にしたのは情報のバリアだったと言えるのではないか? 軍事大国化に伴って困窮する国内の農村。その農村を救え、という大合唱。その声は困窮した農民たちを新天地での開拓に動員させる。新天地といっても人のいない大地があったわけではない。そこで暮らしている人びとを蹴散らして入植させていった。国内の農村救済と他国への侵略とが1つになる。蹴散らされた人びとの声が届けられることはほとんどなかった。逆に「ロマンに満ちた満洲の大地」というイメージのみが日本に伝えられた。当時のみならず、戦後の教育や報道においてもそこで何が起きたのか、多くの日本人は知らないままだ。
国外の食料に依存する体制は戦後も続いた。戦前、日本で使われた大豆の8割は中国東北部と朝鮮半島からもたらされた。敗戦によってそれが失われる。輸入された大豆は肥料や大豆油として使われ、直接の食用ではなかったが、それが断たれ、農業生産は深刻な状況に陥り、日本は深刻な食料難となる。タンパク源の確保のために南極への捕鯨が検討され始めるのもこの時だった(これは結局失敗に終わる)。そして実際的にそのタンパク源の供給を担ったのは米国だった。米国の食料戦略に包摂されることで、日本の食料海外依存体制は戦後も維持された。
米国が大豆禁輸を打ち出したことに対して、田中角栄がブラジルに目を付けたのが1974年。それまでほぼ米国に独占されていた大豆貿易を多角化させることが目的だった。ブラジル・セラードでの大豆大規模生産。これはかつての「満洲」の夢の再現となった。しかし、ここでも同じことが起きる。そこも無人の大地ではなかったからだ。
先住民族、キロンボーラ(逃亡黒人奴隷起源の黒人コミュニティ)、伝統的住民たちを蹴散らして、その大規模開発は進められた。そしてここでも彼らの声は日本に伝えられることはなかった。それどころか戦前、「満洲国」の幻影が報道されたと同様に、マスコミは真逆の報道を続けた(現在も)。世界で最も生物多様性に富んだサバンナであるセラードを日本政府もマスコミも「不毛の大地」と決めつけ、日本のODAによる開発計画はその不毛の大地を緑の穀倉地帯に変えた「奇跡の開発」だと褒めあげ続けている(しつこいが現在も)。そして、このセラード開発がアマゾン破壊の前進基地となっていく。
一方、ブラジル現地ではその真逆のことが進みつつある。セラードの生態系は世界に他にない貴重なブラジルの国家遺産であるとして、さらなる破壊からセラードを守ろうとする運動が広がった(2)。そして、今年、この貴重な生態系と人びとの生活文化を破壊した開発を人類に対する犯罪であると告発する判決が下されたのだ(国際民衆法廷(3))。しかし、こうした動きを日本に伝えたメディアがあっただろうか。「満洲」からセラード・アマゾンまでマスコミは昔も今も役割を果たさない。
米国やブラジルの農業は先住民族の大地を奪ったもの。南北米大陸の収奪によってグローバルな資本主義が成立した。そこで展開された収奪的な工業型農業は土壌の大規模崩壊と汚染を生み、水源は枯渇し、もはやかつてのような輸出はできなくなることは目に見えている。そして、日本は食料を輸入する力も失いつつある。今後、輸出産業が総崩れの状況の中で、急激な円安が進み、もはや輸入したくても輸入できなくなるだろう。危機がまたやってこようとしている。
大変な災禍をもたらした敗戦直後、日本社会は食料危機に襲われた。戦前も戦後もこんな脆弱な体制が長く続いたのは情報の壁があったからだ。国外に犠牲を強いて、国内だけに視野を限らせる。国外で日本がどんな破壊に関わっていても知ろうとせず、国内だけよければいいと考えてしまう。そして、未だに日本の侵略戦争は「侵略ではない、日本の進出によって現地は豊かになった」などと真逆のことを信じて疑わない人たちがいる。突然、その体制が維持できなくなる寸前までそのあり方を容認してしまう。しかし破局はすぐそこまで迫っている。私たちの社会は大きな変革を迫られている。
もし、情報の壁が破れて、犠牲者たちの声が直接届いたらどうなるだろう? 少なくとも居心地悪くなるだろうし、そのままを続けようとは思わなくなると信じたい。どうやってその社会のあり方を変えるか、考え出すだろう。それは大きな変革を可能にする力になるはずだ。収奪的な農業ではなく、生態系を守る農業へ、グローバルな食のシステムからローカルな食のシステムへ。侵略や差別・排外ではなく、連帯へ。
すでにブラジルでも世界でもアグロエコロジーの発展、米国でもリジェネラティブ・アグリカルチャーの進展がめざましい。そうした農業に必要なさまざまな小さな工夫を提供するのは日本の得意とするところのはずだ。生態系を守る社会に必要なものや経験を日本が開発して提供すれば、それは世界で賞賛されることになるだろうし、未来も見えてくるだろうし、そうしたことができてこそ、本当の意味での誇りは取り戻せるだろう。
排外主義が許されないのは、道徳的に許されないのはもちろんなのだが、それが結局、私たちの生活すらも破壊してしまうからでもある。自分たちの利益だけ守ろうとしても守り続けることはできない。すべてはつながっているから。
(1)
(2)
2022年3月1日
https://www.facebook.com/InyakuTomoya/posts/pfbid022ybngCgRg6YaYDbFeZMJmoGDhfzgPJxbLhMwaBRUTiAEAU3DtUC4FCxwYpqVLXSSl
(3) 2021年8月23日 セラードに関する国際民衆法廷
https://www.facebook.com/InyakuTomoya/posts/pfbid02ZW7bGcoaZomasBBe8YM9FBAqRAzpJNMbiByT2YMxJaTEMzXWPk5YESx6hFhxfuLFl
セラードに関する国際民衆法廷
https://tribunaldocerrado.org.br/