アグロエコロジー・セミナーで感じた違和感

 アグロエコロジーの教科書が日本語で出版されたということで、アグロエコロジーをテーマとするセミナーがいくつも行われた。その一つに参加してみたけれども、違和感を感じざるをえなかった。そのセミナーではアグロエコロジーとは単に自然と調和した農業、というイメージしか感じられなかったからだ。でもアグロエコロジーについてその意義をここ10数年紹介してきた僕にとって、アグロエコロジーとは到底、そんな枠組みに収まるものではありえない。何が欠けているのか考えてみたい。
 
 500年ちょっと前、世界の植民地化が始まった。南の地域を征服して、多様な社会・生態系が破壊され、モノカルチャーへと変えられていった。現在、われわれが直面する気候危機と生物絶滅危機の起源がここにある。生物に満ちた広大な森林は伐採され、単一作物耕作地帯へと姿を変えられた。土地はごく一部のものに独占され、多くの人びとが奴隷化させられた。後に化学肥料や農薬が登場し、その土地には大量の化学物質が投入される工業型農業が世界の景観を変えていった。
 それは南の世界を変えただけに留まらない。北の世界をも変えていった。いや北の世界こそ徹底的に変えてしまったと言わざるを得ない。有機農業運動は工業型農業に対する一つの異議申し立てであっただろう。しかし、世界全体から見るならばそれはこうした北の世界が南の世界を植民地化する植民地化構造の内部的存在に過ぎなかった面は否定できない(もっとも僕は有機農業運動や自然農法運動をアグロエコロジーに対立するものとは考えていない。これらの運動は相互に出会い、融合していくと思うからだ)。
 
 北の世界で有機農業が広がり始めた時、ラテンアメリカではその有機農業に対して抵抗感があった。なぜかというと、ヨーロッパの植民地権力から独立していくのが現代のラテンアメリカだからだ。そのラテンアメリカでなぜ旧宗主国の組織のやり方に従って承認を受けなければならないのか、ということになる。
 しかし、ラテンアメリカにはラテンアメリカ独自の農業実践があり、その中に現代農業を超える要素があることをチリ人のミゲル・アルティエリさんが発掘する。つまり自分たちの実践の中にすでに未来につながる実践の芽があることが実証されたのだ。外からモデルを持ち込むのではなく、その地その地の生態系にあったベストな農法を、その地の農家の伝統的な知恵と科学の対話によって作り出す、というミゲルさんが提唱した方法論は革命的なものであった。
 もし一定の農法の受け入れを強いる有機農業であるのであれば、それは植民地構造を再生産してしまうだろう。しかし、アグロエコロジーはそうではなく、地域の農民の伝統的な知恵や文化に力を与え、強いられた植民地化・工業型農業に抗い、植民地化によって奪われた土地と文化・歴史を取り戻す社会運動となったのだ。だからこそ、ラテンアメリカ全域に急速に拡がり、各地の農業労働者、小農を力づける理論となり、社会全体を揺るがす運動となった。
 アグロエコロジーとは農地改革などの食料主権を求める運動と不可分であるし、社会全体の民主化とも不可分なのだ。農法だけでなく、エネルギー主権、技術主権も重要な要素であり、ジェンダーも重要な課題となる。それ抜きには植民地化構造は破れないからだ。
 
 でもそれは南の世界のことだろう、というかもしれない。しかし、実際にこのグローバルな工業型農業によってもっとも徹底的に変えられたのは南以上に他ならぬ北の世界だ。今なお、南の農民は多様なタネを保持し続けている。それに対して、北ではタネとは独占種子企業から買うのが当たり前のものになってしまっている。南以上に多くのものを失っているのが北なのだ。
 もちろん、ラテンアメリカから発展したアグロエコロジーをそのまま日本に入れることなどできない。日本でアグロエコロジーを考えるのであれば、それは日本で失われたものを取り戻し、また狙われているものを守ることが主題になる必要がある。決して自然と調和した農法の話に留まるものではないのだ。
 日本では農業問題、食の問題が矮小化されて扱われるが、それこそが権力構造を示している。食を握る農薬・遺伝子組み換え企業、穀物メジャーなどのアグリビジネスは北のメディアではステルス化される。彼らがメディアを握っているからだ。だから食が危機的になっていても、人びとの意識にも登らないようになっている。見事にわれわれの意識は植民地化されてしまっていると言っていい。このままでは本来の食を取り戻すことは不可能であり続けるだろう。日本でアグロエコロジーを考えるとは、そのようなことを語り、課題化し、運動化することがなければならないはずではないか?
 
 アグロエコロジー運動とはこの世界大のグローバル化された工業型農業・食のシステムを根本から変えていく運動であり、個々の農民の知恵と経験を尊重し、力づけ、地域を復活させ、そして食に関わる社会すべての人たちを結びつける運動である。土や微生物の話をすればアグロエコロジーになるのではない。抵抗運動として生まれ、既存権力と闘ってきたことを抜いて、アグロエコロジーは語れない。苦難を続ける日本の農民運動、食の運動こそこのアグロエコロジー運動の力を活用すべきなのだ。

 ミゲル・アルティエリさんの話をここでは書いたが、日本語版の本が出版されたグリースマンさんもまたメキシコでの経験が彼のアグロエコロジー論の基盤にある。しかし、よりその社会的側面、抵抗運動としてのアグロエコロジーについてはラテンアメリカの社会運動からも、たどる必要がある。それをたどることで日本にとっての課題もより明確になるだろう。
 ミゲルさんが来日された時、会いに行ったのだけど、翌日の彼の講義にはモンサントに対する抗議行動が入っていたので出られないので申し訳ないと謝ったら、「そっちの方が大事だからがんばってくれ」と声かけられた。そんな感覚があって当たり前なのがラテンアメリカのアグロエコロジーなのです。

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