種苗法問題で地方紙に投書を書いています。この問題について書くと、企業がお金作って開発した品種の自家増殖禁止に反対するなんて、著作物の複製を認めさせるような主張で馬鹿じゃない、みたいな反応が出てきます。
この考え方は幾重にも問題があって、それをこれまで説明してきたけど、どうしても長くなってしまう。譬え話で説明できないか考えました。ちょっと一面的で一般化できないのだけど、ちょっと失礼。
国会で本の読み切り法案が可決しました。今後、本は読む度に料金を払う必要があります。
一度、買った本は好きな時に好きな部分を何度でも読める。そういうものだったのに、一度、読む毎にお金を払わなければならない。買った本が気に入ったら、友だちにそのままプレゼントすることもできたし、子どもにいつか読ませようと大事に取っておくこともできた。買わなくても図書館で借りて読むこともできた。
しかし、今後はそれはすべて非合法です。お金を払えば読むことができます。ただし払う度に一度だけです。
それはひどい、人びとの読む権利を踏みにじっている。
いいえ、そんなことはありません。著作権の切れた本は何度でも読んでいただいて結構です。
川端康成とか芥川龍之介の本はご自由に何度でも読んでください。
こうした本があるから、この法はバランスが取れています。つまり、人びとの読む権利と著作権のバランスが取れているのです。
と言われたらどうだろう? もちろん、あまりに非現実的だけれども、今、出版業界は悲鳴を上げている。だから救済しなければならない、としてこの法案が出てきたらどうだろう? そもそも読書の文化が崩壊してしまうと思うだろうだろう。自由な読書が可能なのが川端康成とかの本しかないと言われた時に、新たな本を書こうという気力を持てる作家が出てくるか、ひじょうに疑問である。もちろん、古典が価値がないという意味ではまったくないが。
これが映画だったらどうだろう? 映画館で見る映画は入れ替え制が多いだろう。映画を制作した人たちが制作を続けていくためにもそれは多くの人が納得していると思う。これは本の場合と大きく異なると言えるかもしれない。図書館でDVDを借りることもできるけれども、図書館にDVDを納入する時は図書館価格で卸されることが多い。つまり、無料で見られる人たちを前提にして価格が設定される。
著作権、知的所有権を考える時に、フェアユースをいっしょに考えなければ逆にその著作権を支えるシステム、文化が崩壊してしまうところがある。そのフェアユースの範囲はその対象によって大きく異なるだろう。本と映画では異なるし、ソフトウェアでもまた異なる。買って支えることも大事だし、自由に使って、新しい芽がそう使っていた人びとの中から出てくる。それが文化を豊かにしていく。フェアユースを無視してしまえば、ある意味、文化の根幹とも言える部分が壊れてしまいかねない。
種苗でも、種子を食べるコメや大豆、種子まで育てることは稀な野菜ではまた違いがあるかもしれない。自己増殖続ける稲、イモ、サトウキビ、イチゴ、果樹、それぞれの作物によっても変わりうる。また、地域の民間種苗会社の場合と国や都道府県の公共種苗事業でも違いがあるだろう。
それを一律に禁止するということは本の読み切り課金と同じくらい理不尽なことになりうる。そして本を愛する人たちを巻き込むことなく、そんな法律を決めてしまったら大混乱が起きると思うが、今、種苗法改定でそれをやろうとしているといわざるをえない。
果たして、それでもOKですか?